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コルドバ県
コルドバ
コルドバ(Cordoba)は、華やかさというよりいぶし銀のような風格を秘めた町で、千年程前ここに一大文化が栄え、ヨーロッパ随一の大都会を形成していたとは想像し難いかもしれません。コルドバが花開いたのはローマの植民地「ベティカ」の時代で、後の10世紀イスラム教カリフ王国の時代に最盛期を迎えます。当時のコルドバの人口は100万近くに達したとも言われ、現存する大回教徒寺院をはじめ市内には300ものイスラム寺院がありました。また学問の町でもあり、医学・天文学・哲学・文学等など諸学問の中心地であり、古今東西の文献はここで翻訳されヨーロッパ全土へと流布されてゆきました。すぐれた学者を輩出し、国外からの留学生も多数受け入れていたとされています。
コルドバ市は人口は現在約31万5千人で、
アンダルシア州にある
コルドバ県を南北にわけるような形で東から西へ流れるグアダルキビール川の中央に位置します。グアダルキビールとはアラブ語で「大いなる川」という意味で、この川に潤おされたコルドバの土地は、穀物、綿花、ぶどう、オリーブ等を主に産出しています。コルドバ市内は回教寺院(メスキータ)はもちろん、白壁に色々の花々がよく映える旧ユダヤ人街や中庭(パティオ)の美しさも必見です。6-7月頃、周囲のゆるやかな丘陵地帯に連なる「ひまわり」の畑は壮観です。
コルドバのホテル
コルドバの観光名所
メスキータ(回教寺院):コルドバの回教寺院はメッカにある世界最大のカーバ回教寺院に次ぐ大規模のもので、コルドバ・カリフ王朝の絶頂期を象徴する記念碑といえます。着工・完成ともに8世紀後期ですが、歴代の王はメスキータの改築が増改築を重ね、現在に近い建物になりました。13世紀、キリスト教徒の時代に移り、この回教寺院の建物中央部がキリスト教のカテドラルに改造されました。
北側の「免罪の門」(Puerta del Perdon)が入口で、ここから「オレンジの中庭」(Patio de los Naranjos)に進みます。回教徒はこの中庭の池でまず沐浴し、中庭に面した19ヶ所のアーチ型の出入口から直接寺院へ入ったといわれています。今では池はなくなり、わずかに10世紀の井戸が当時をしのばせるのみです。その後アーチ型の出入口は塞がれ、現在出入りするのは「シュロの門」(Puerta de las Palmas)からです。中に入りまず目に入るのがその数850の大理石柱の林立で、非常に幻想的な雰囲気が醸し出され、まさに別世界です。「シュロの門」を入った処が一番古くアブデラマン1世(8世紀後期)が建てた部分です。さらに奥へ進むとアブデラマン2世(9世紀前期)の、そしてつきあたりがアルハカム2世(10世紀後期)の増築部分になります。回教の寺院では「ミーラブ」と呼ぶメッカの方向を指すメくぼみモがアルハカム2世増築部分に残っています。非常に大きく豪華な造りで繊細なアラベスク模様や大埋石のモザイクが見事です。 メスキータの東側、全体の約3分の1を占める部分がアルマンソール(10世紀後期)による増築です。増築部分が異和感がないように配慮したにもかかわらず、時すでにカリフ王朝の絶頂期を過ぎ、財政的に余裕がなかった時期を反映してか、壁が少々薄いなどの手抜き工事が行われたとされています。中心部分は長方形に仕切られキリスト教のカテドラルになっており、この改造にあたって教会側は、地元の反対をかわすために当時の王カルロス5世の認可を得ました。しかし、当のカルロス5世はこの工事現場をたまたま通り、「世界のどこにでも有るような物を造るために、どこにも無い物を壊した」と嘆いたと伝えられます。この改築工事は着工から240年余りかかり、様式もゴシック、ルネッサンス、ハロックと移り替わり、建物自体は素晴らしく立派なものですが、カテドラルがメスキータの真只中にあるというのが何とも奇妙で、回教寺院の中にキリスト教がこのように堂々と共存する例は他にはなく特異な存在です。
アルカーサル(Alcazar):これは14世紀アルフォンソ11世によって建てられたムデハル調の城です。カトリック両王は、アラブ勢力の最後の砦だったグラナダ王国の征服を指揮するためここを居城にしています。コロンブスが新大陸への大計画を携えてカトリック両王に謁見を許されたのもこのアルカーサルでした。また悪名高い異端審問所が1490年から1821年までここに置かれました。現在残っているのは広間が数室、中庭、庭園、そして城壁の四隅にそれぞれあったとされる塔のうち3つだけです。アラブ趣味の広い庭園には池と噴水、糸杉と熱帯植物が織りなす調和があり、散策のひと時を過ごすのに最適です。広間の展示品には2-3世紀頃の大理石の棺やローマ時代のモザイク画が注目を集めています。
ローマ橋:グアダルキビール川にかかる橋の1つでローマ時代に築かれました。2000年もの間コルドバの歴史を見守り続けてきましたが、その間の戦争や暴動の度に壊され、また改修されるというパターンを繰り返してきたところです。回教時代に要塞として建てた塔がメスキータからの対岸(グアダルキビール左岸)にあり、通称ラ・カラオラ(La Calahorra)と呼ばれています。内部はコルドバ市の歴史博物館です。
ポトロ広場:ポトロとは子馬の意味で、名前はこの広場の噴水の先端にブロンズの子馬が乗っている事からきています。この広場は「ドン・キホーテ」にも出てくるので有名です。広場に面した「はたごやポトロ」(Posada del Potro) はセルバンテスも泊まったという15世紀頃からの宿屋ですが、現在は国営民芸品店になっています。
フリオ・ロメロ・デ・トレス美術館:ポトロ広場に面した旧慈善病院の中にあります。スペイン人画家の作品が多く、バルデス・レアル、ムリーヨ、リべ一ラ、カレーニョ・ゴヤ(「マリア・ルイサ」「カルロス4世」)等の名がみられます。フリオ・ロメロ・デ・トレスは今世紀始めに活躍したコルドバ出身の画家です。手足を強調した浅黒い肌の女性像に特徴があり、その独特の画風はコルドバの誇りです。
ユダヤ人街:狭い石畳の通りの両側に並ぶ白壁の家々と花鉢の数々。開いた扉越しに、または鉄格子の透かし模様を通して垣間見る各家のパティオ(中庭)。いかにもコルドバらしく、美しく静かで落ち着いたたたずまいです。アルモドーバルの門(Puerta de Almodovar)から入って右手のフデイオス通りには14世紀ムデハル調のユダヤ教会(La Sinagoga)が残っています。すぐそばにはエル・ソコ(EI Zoco)があり、中央のパティオをとり囲むように周囲に民芸品店が並びます。フラメンコ・ショ-の店「タブラオ」もあり夜は賑わいます。エル・ソコと同じ建物の反対側は「市立闘牛博物館」(Museo Municipal Taurino)で、コルドバ出身の闘牛士に関する資料や遺品が陳列してあり、中でも名闘牛士として一世を風靡したマノレテのものが目を引きます。
花の小格:まさに花園のような一角です。壁一面に吊り下げられた鉢、バルコニーや窓の格子から所狭しと顔を出す花々、 壁際に並んだ観葉植物の緑。人達が美しい街づくりにいかに熱心であるか感嘆します。
メディナ・アサアラ:コルドバから北西9Kmの地点にあるアラブの宮殿跡です。アブデラマン3世が愛人アサアラのために大宮殿を建てたのが936年。当時の西欧ではこれほど贅を尽くした宮殿はないといわれた程立派なものでした。しかし、1010年にはカリフ王国の内紛からベルベル族によって完全に破壊され略奪され、わずか74年の短命で終りました。近年の発掘調査により、宮殿とその城下町の様子が明らかにされています。山の傾斜を利用して3段階に分れており、一番上が宮殿、真中が庭園、一番下が回教寺院とその付属施設でした。廃墟の中に一つだけ完全復元された大広間「大使の間」が見学できます。
地図
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スペイン(イベリア半島)におけるコルドバの位置
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